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川路城のすぐそばに小川路城があります。 ここも設楽家に関連した城と言われています。別名、川路市場城とも呼んでいたようです。 新城にはこうした由緒や歴史が分からないお城がたくさんあります。きっと、戦いに敗れて、歴史の中に埋もれた人たちのお城だったのかもしれません。 #450年 pic.twitter.com/e0Ya5tKSG3
設楽原は設楽家の采地でした。その設楽家が拠点としていたお城の一つが川路城でした。 今は何もなく、お鷹井戸と呼ばれる場所があるだけです。 設楽家はもともと設楽郡の郡司の家柄で、戦国時代もこの地域随一の家柄でしたが、下剋上の世の中、設楽原一帯を治めるのが精一杯でした。 #450年 #設楽家 pic.twitter.com/ShdCj8XMsm
ここも鉄砲玉が見つかった場所です。 ここで熊谷さんが見つけたのですが、熊谷さんにとって2つ目の鉄砲玉でしたので、ここには標柱がありません。 一時、雨の降った翌日は見つかるということで、ウロウロしてたら見つかったというものです。 一所懸命に探すと案外見つからないんです。 #450年 #鉄砲玉 pic.twitter.com/bs6hbIONzU
高森恵光寺という武田方の武将のお墓です。 この方はどういった武将かはよく分かっていませんが、何よりもお墓のある位置が重要です。 連吾川上流の連合軍側にあるのです。ここにお墓があるということは、連合軍陣地にかなり食い込んで亡くなった証拠ではないかと考えられています。 #450年 #設楽原 pic.twitter.com/TXZLWpHjvZ
資料館の敷地からいくつかの鉄砲玉が発見されています。 平成12年7月8日に開催されていた設楽原決戦場まつりに参加していた山梨県旧大和村の6年生、高橋さんが発見してくれました。 新聞にも取り上げられて、大きな話題となりました。 #450年 #鉄砲玉 pic.twitter.com/jiDpGHpjWc
昨日アップした馬場信春の石碑のそばにある2つの石碑。 2つともに馬場信春に関係の深い石碑です。 1つは馬場美濃守墓、もう1つは馬場彦五郎のお墓。 #450年 #馬場信春 pic.twitter.com/10ya0aaz1n
武田四天王の1人、馬場信房に関係する石碑は設楽原や長篠に3ヶ所あります。ここがそのうちの1つで、出沢という地区で道に面した場所にあります。 この近くで討ち死にしたと伝えられています。 #450年 #馬場信房 pic.twitter.com/FFpgaqQZlC
山縣昌景のお墓にはたくさんと墓石が並んでいます。 昌景の墓石が2つ。 高坂又八郎助宣、山縣甚太郎昌次、名取又左衛門道忠のお墓もあります。 山縣墓と彫られた墓石は江戸時代から祀られています。 #450年 #山縣昌景 #設楽原 pic.twitter.com/1i9uGP8Hde
草ボーボー過ぎて分かりにくいですが、設楽貞通が陣地を構えた場所(樋田)に建つ石碑です。 豊川を挟んだ設楽原の対岸にあります。鳶ケ巣山から落ちてくる武田兵に備えたと考えられています。 設楽貞通は設楽原を領地に持つ徳川方の国衆の1家です。 #450年 #設楽貞通 #樋田 pic.twitter.com/GVllVCDyCL
織田信長の嫡男、信忠が陣地を置いた場所です。 今は野辺神社というお宮がありますが、その昔は天神山と呼ばれていました。 この近くにも豊川用水が流れており、そこに架けられた橋に天神という名前を見ることができます。 #450年 #織田信忠 #設楽原 pic.twitter.com/CUGA1j40xE
徳川家康の嫡男、信康が陣地をこの地に置きました。 主戦場となった連吾川から、弾正山、大宮川を越えた松尾山に陣地を置いたのは、家康の父としての優しさと、若き武将に武田軍との戦いを経験させる厳しさが、この場所への布陣につながったのかもしれません。 #450年 #設楽原 #信康 pic.twitter.com/sjmu4ohUlM
朝からポツポツと雨が降っている設楽原。 資料館のすぐ近くに武田24将の1人、甘利信康のお墓があります。 この地で立ったまま切腹したと伝えられています。 戦いにはいろいろな逸話が遺されていますが、このお話もその一つです。 #450年 #設楽原 #甘利信康 pic.twitter.com/M20WKCb6D1
設楽原に到着した織田信長がこの場所に本陣を据えました。極楽寺があったとされますが、今は平井神社が鎮座しています。 極楽寺の名前は豊川用水に架かる橋に見られます。 平井神社周辺はちょっとした高台で、割と広いので、ここに本陣か!っと頷けるところです。 #450年 #設楽原 #織田信長 pic.twitter.com/tGnYU8g2BZ
こんなところにあったのか!っというところにありました。 これまで、気にはしてたけど、探すこともしていませんでした。 たまたま、見つけました。 連吾川下流の右岸側、連合軍の玉だと思いますが、詳しいことは分かっていません。 #450年 #設楽原 #鉄炮玉 pic.twitter.com/xucVFQPeJM
連我川の下流域です。 連吾川はちょうど飯田線のあたりから、谷を刻むようになります。ここがちょうどその場所です。 ここから南方面は馬防柵を作る必要がありません。 #450年 #連吾川 #馬防柵 pic.twitter.com/gmwQU7v7Zj
設楽原の決戦時に徳川家康が本陣を置いた八剱神社です。 ここは連吾川から山の反対側にあるので、本来はこの山、弾正山の上に陣を置いたと考えられています。 この山も、昔は八剱神社だったのでしょう。 #450年 #徳川家康本陣 #設楽原 pic.twitter.com/OT5oJWudoW
朝から、結構激しっかりと雨がふっています。 最近は言われなくなりましたが、武田軍は雨のために馬防柵が見えなかったという説がありました。 資料館は武田軍陣地にありますが、今日の雨でもしっかりと馬防柵はちゃんと見えます。 #450年 #雨の設楽原 pic.twitter.com/Zt3phYKMw3
鉄炮三段撃ちの新しい形です。以前より私が提唱しており、NHKでも取り上げていただいたこともあります。 果たして、実際のところはどうだったのでしょうか? レジ撃ち式と言っていますが、もう少しそれらしい名称を考えないと・・・ #450年 #長篠・設楽原鉄砲隊 #三段撃ち pic.twitter.com/9rvmSkU7C4
今日開催されたつくで古城まつりで鉄炮三段撃ちをやってきました。 2種類の三段撃ちです。 まずは通常版です。 #450年 #三段撃ち #長篠・設楽原鉄砲隊 pic.twitter.com/4gizByaGKE
明日、5月12日、作手亀山城で【作手古城まつり】が開催されます。 ぜひ皆さん、新緑深い作手にお越しください! 長篠・設楽原鉄砲隊による火縄銃演武もあります。 #450年 #作手古城まつり #長篠・設楽原鉄砲隊 pic.twitter.com/09r9pgkXAB
今日もいい天気です。 鳶ケ巣山から長篠城、その向こうには設楽原があるのですが、設楽原は見えません。それはその間に有海の台地があるからです。 この複雑な地形が、設楽原で戦いが行われた理由に1つです。 #450年 #設楽原 #鳶ケ巣山 pic.twitter.com/Xein9EXzF9
設楽原は今日も気持ちのいい青空が広がっています。 馬防柵ではアザミの花が咲き乱れ、クロアゲハが蜜を求めて、花から花へと舞っています。 これから梅雨入りまで、設楽原は心地よい季節です。 #450年 #設楽原 pic.twitter.com/nId3lJiF2W
長篠城は宇連川と寒狭川に囲まれた城だと言われますが、意外に知られていないのが、本丸の北側にも細い川が流れています。 この川が結構重要で、細い川なんですが、滝(不忍滝)から深い谷を刻んでおり、宇連川、寒狭川とともに本丸を守る天然の堀の役割を果たしていました。 #450年 #長篠城 pic.twitter.com/WHq76IOZJ7
昨日に引き続き、設楽原の道標です。 竹広公民館の脇にある道標。 正面 右 天王山 招魂碑 内藤昌豊之墓 左 信玄塚 裏面 昭和四十八年五月 竹広八剱会 鎌倉市梶原山 内藤剛 建之 #450年 #設楽原 #道標 pic.twitter.com/F1S7rIH5v9
設楽原には武将たちのお墓だけでなく、道標もたくさんあります。 信玄塚の近く、山縣昌景の墓へと続く道の入り口にも一つあります。 正面 右 設楽原決戦場 うしろの塚 原公墓 左 山県公墓へ 裏面 昭和四十八年五月 竹広八剱会建之 #450年 #設楽原 #道標 pic.twitter.com/YwKXWsLNql
晴天の下、長篠合戦のぼりまつりが長篠城で開催されました。地元の長篠・設楽原鉄砲隊の皆さんの演武です。 暑い中の演武、鉄砲隊の皆さんもご来場いただいたお客さんもお疲れ様でした。 #450年 #長篠城 #長篠合戦のぼりまつり pic.twitter.com/8Wir5foyxq